2018-08-11

インターネットへの挑戦


一昨日はジェリー・ガルシアの命日だったのかぁ。
9日やよね? 1995年。
奇しくもその年は、わたしにとっての「インターネット元年」でもあった。
ジェリー・ガルシアが他界する2ヶ月ほど前に彼の姿を最後に確認した。ボブ・ディランが前座を務めたグレイトフル・デッドの東海岸ツアーで。
この公演(6月19日、ジャンアンツスタジアム)でわたしはじめてインターネットでチケットを入手。といっても、友だちが働く会社にインターネットが入り、それがどれだけおもしろいモノかを数時間も受話器越しに教えてもらいながら、その最中にグレイトフル・デッドのキャンセル・チケットが出たのですぐに申し込んだのだった。
梅雨の晴れた日の深夜。(たぶん)1995年6月16日から日付は17日になっていた。

インターネットはなんでも教えてくれた。
前日のセットリストから、ツアーのスケジュール、チケットの入手方法、会場へのアクセスetc……ミュージシャンのインタビューも載っていたし、ディスコグラフィーも。
後年になるけど音源もたくさんあって、一時期、夢中になってDLしていた。
もうな〜んにもしなくていい!
インターネットのなかの住人になれば、わたしの欲しいモノ、知りたいコトはすべて手に入る!
そんなふうに考えていた。少なくとも1995年6月16日から19日の「前座のボブ・ディラン」がはじまるまでは。
まだ陽が完全に落ち切っていないジャイアント・スタジアムの空にヘリコプターが飛んでいた。
ヘリコプターからは「ボブ・ディラン、MTV アンプラグド」っていう垂れ幕。
ステージ袖にはジェリー以外のボビー、フィル、ミッキー・ハート、ビル・クレアッツマンがいて、ボビーはスナップルのピンクレモネードを持っていた。
客席は(その前年のウッドストック94から流行の)「エブリバディ・マスト・ゲット・ストーンド!!」の大合唱。
彼にはもしかすると歌う場所や時間、その他の条件や欲望はないんじゃないかなぁ、とぼんやりとそのとき思った。
彼はその向こう側にある、回数を重ねることでみえてくる「なにか」へ向かっている。
それがネヴァーエンディングツアーなのか? ツアーがはじまって7年目にわたしのなかでひとつの答え、その緒へとたどり着いた。
ライヴの一回性。
インターネットが先生ではなく、ボブ・ディランが先生だったと思い出させてくれた。もちろんジェリーも、ね。
でもこの夜のジェリーは精彩を欠いていた。とりとめのないソロが長々と、だれも、なにも、決められないままインプロビゼーションがつづいていた。まぁ、そんな夜も少なからずあるだろう。そんな夜を自分は今、体験しているのだと思った。それらのことはインターネットには決して載らないことだということにわたしは気づいてしまった。
そして、そのときから(無理を承知で)「インターネットへの挑戦」を試みるようになった。
たしかほぼ同時期にローリングストーン誌が「インターネットとの相互作用で巨大化していくジャムバンド」という特集を組んだ。
無機質とも思えるコンピュータの世界や20世紀を象徴する複製芸術の世界と一回性、身体性をともなうライヴ・パフォーマンス、ジャム・バンドたち。わたしはこの相反する(ような)世界を行き来することに決め、「音楽(評論)における身体性」を考えはじめたのだ。
「インターネットへの挑戦」は、ほぼ10年間ぐらいつづけたかなぁ〜。CDや印刷物にかかわる仕事をしながらも「複製品の時代は終わったぁ!」って叫びつづけていた。
でもねぇ、わたしごときがそんなことをしていてもやっぱりインターネットには勝てないワケだし、体力も気力もお金も仕事もつづかなくなってしまった(笑)。

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